歯を抜いた後に襲ってくる耐え難い痛み、それがドライソケットと呼ばれる治癒不全の状態です。抜歯後の穴が血の塊で塞がれず、顎の骨が露出したままになるこの症状は、一度なると痛み止めも効かないほどの激痛を伴います。そして、このドライソケットになるリスクを劇的に高めてしまう最大の要因の一つが「喫煙」です。愛煙家の方にとって、ストレスのかかる抜歯前後にタバコを我慢することは非常に辛いことかもしれませんが、なぜ歯科医師が口を酸っぱくして「抜歯前後は禁煙してください」と言うのか、その医学的な根拠を知れば、火をつける手を止めることができるかもしれません。まず、タバコに含まれるニコチンの作用が挙げられます。ニコチンには強力な血管収縮作用があり、毛細血管を縮めて血流を悪くしてしまいます。抜歯後の傷口が治るためには、血液に乗って運ばれてくる酸素や栄養分、そして免疫細胞が不可欠です。しかし、喫煙によって血流が滞ると、傷口に十分な血液が供給されなくなります。ドライソケットを防ぐための「血餅(けっぺい)」という血の塊を作るためには、抜歯直後の出血とその後の凝固プロセスが重要ですが、血流不足ではこの血餅が十分に形成されない、あるいは形成されても脆く崩れやすいものになってしまうのです。栄養が届かない土地に草木が育たないのと同様に、血が巡らない抜歯窩(歯を抜いた穴)では、歯肉や骨の再生が進まず、骨が剥き出しの状態が続いてしまいます。さらに、タバコを「吸う」という動作そのものにもリスクが潜んでいます。タバコを吸い込む際、口の中は陰圧(いんあつ)と呼ばれる真空に近い状態になります。ストローで飲み物を吸う時と同じ原理ですが、この陰圧がかかると、せっかく傷口を塞ごうとしていた血餅が、吸い込む力によってスポンと剥がれ落ちてしまうことがあるのです。特に抜歯当日から翌日にかけての血餅は、まだゼリー状で非常に不安定な状態です。この時期にタバコを吸うことは、傷口のカサブタを無理やり掃除機で吸い取るような行為に等しいと言えます。加えて、タバコの煙に含まれる一酸化炭素やタールなどの有害物質が、傷口の粘膜を直接刺激し、治癒をさらに遅らせ、感染症のリスクを高めることにもつながります。統計的にも、非喫煙者に比べて喫煙者のドライソケット発症率は数倍高いというデータがあります。中には「一本くらいなら大丈夫だろう」と軽く考えてしまう方もいますが、その一本が命取りになり、その後1週間から数週間にわたる地獄のような痛みを招く引き金になるのです。ドライソケットの痛みは、タバコで得られる一時のリラックス効果を遥かに超えるストレスとなります。もしこれから抜歯を予定しているのであれば、少なくとも抜歯後3日間、できれば1週間は禁煙することを強くお勧めします。それは単なる我慢ではなく、自分自身を激痛から守るための賢明な防衛策なのです。ニコチンパッチなどを活用し、どうしても吸いたくなったらドライソケットの痛みを想像して、何としてもタバコを遠ざける勇気を持ってください。