「抜歯当日は激しい運動や長風呂、飲酒は控えてください」。歯科医院を出る際に受付の方から渡された注意事項の紙には、確かにそう書かれていました。しかし、その日の私は仕事で大きな契約をまとめた高揚感と、無事に親知らずの抜歯を終えた安堵感から、少し気が大きくなっていたのです。「一本抜いただけだし、痛みもないし、少しくらいなら大丈夫だろう」という慢心が、その後の長い苦しみを招くことになるとは、その時は知る由もありませんでした。帰宅後、私は自分へのご褒美として、冷えたビールを一本開けました。アルコールが体に染み渡り、心地よい気分になったところで、疲れを癒すために熱めのお風呂にゆっくりと浸かりました。湯船の中でリラックスしていると、ふと口の中に温かいものが流れ込んでくるのを感じました。唾液かと思いましたが、その量は徐々に増え、口の中が鉄の味で満たされていきました。鏡で確認すると、抜歯した箇所から鮮血が止めどなく溢れ出していたのです。慌ててガーゼを噛みましたが、血はなかなか止まりません。アルコールと入浴による血行促進効果が、予想以上に強く出てしまったのです。それでも何とか血が止まったように見えたので就寝しましたが、本当の恐怖は翌日から始まりました。本来なら傷口に溜まって固まるはずの血液が、血行が良すぎたために流れ出てしまい、十分な厚みの血餅を作ることができなかったのです。あるいは、一度できかけた血餅が、血流の勢いで押し流されてしまったのかもしれません。結果として私の抜歯窩は、守るものを失った無防備な状態で外気にさらされることになりました。これがドライソケットの入り口でした。2日後、ズキズキとした鈍痛が始まり、3日目には耐え難い鋭い痛みに変わりました。痛み止めを飲んでも1時間もしないうちに効果が切れ、夜中に何度も目が覚める始末。仕事にも集中できず、常に顎を押さえてうずくまるような状態が続きました。歯科医院で診てもらうと、やはりドライソケットとの診断。「当日の飲酒と入浴が、正常な止血と血餅形成を妨げた可能性が高いですね」と指摘され、自分の軽率な行動を呪いました。抜歯後の「血行を良くしない」という指示は、単なる形式的なものではなく、傷を治すための土台作りを守るための極めて重要なルールです。お酒を飲んで血流が良くなると、傷口からの出血が止まりにくくなるだけでなく、一度固まった血栓が脆くなりやすいのです。また、入浴による体温上昇も同様のリスクを高めます。シャワー程度で済ませ、アルコールは我慢し、静かに過ごすべきでした。一時の快楽を優先した代償として、私は1週間以上の激痛と通院という高いツケを払うことになりました。もしあなたが「自分は体力があるから大丈夫」「お酒に強いから平気」と思っているなら、それは大きな間違いです。体の治癒メカニズムは誰しも同じ。抜歯当日の安静は、痛みのない未来への投資だと考えて、どうか慎重に過ごしてください。